いよいよ40歳。まだ老眼はきていない。
40歳を迎えたゆみちんです。
どうも(´・ω・`)
結婚と同時に始めたブログ運営ですが、とうとう15年が経過しました。
長いと思いつつ、意外とあっという間だったかなぁ。
先日、ブログ運営開始からのネッ友とランチにいったのですが、話がはずんで帰ってこれないかと思いました。
普段交流はなくても、ふんわりと見ていてくれる人もいるのだなぁとしみじみしたものです。
さて。
せっかくなので(?)、40歳になった記念に今日までのことを雑多につらつらと振り返ってみようと思います。
40歳は2度目の成人式。
ざっくりと、「大人になる」とはどういうことなのか。
なんて大層なことを言ってますが、答えなんてないのかもしれませんね。
まずは女子高生くらいから振り返ってみましょうか(長い。)
ちなみに、完全に記憶頼りなので、あいまいな部分がおおいにあることは前置きしておきますね。
もう、40ですし(おい)
10代後半、天下無敵の万能感
ルーズソックスみんな履いてた
ギャルがはやった
やまんばが出てきた
タピオカ飲んでた(たぶん)
ナタデココが流行してた(気がする)
スピッツもミスチルも若かった
DA PUMPもおじさんじゃなかった
だいぶ曖昧だけど、こんな感じでしょうか。
もう思い出せないし、偏りがあるのは致し方なし。
流行ってたものを思い出したかったわけではないんです。
思い出すのは、あの頃は「無敵」だったということでしょうか。
なんというか、ものすごく「万能感」をもっていたように思います。
この万能感って、25歳くらいまではあるんですけど、いまの娘を見ていても思います。
ああ、無敵だな、万能だって思ってるんだろうなって。
今でも違う意味で無敵にはなっていますけど、万能感があるかと言われたらそれはなくなってしまいました。
万能で無敵。
そして、流行を生み出す。
それがJK!
それで思うんですけど、「昭和のおっさんおばさんたちが、”あの頃はよかった”とかうぜえ!懐古厨かよ」って、若者からすると感じることもあるかもしれないんですけど、それはもう仕方ないのだと、この無敵万能感を思い出して感じたんです(笑)
だって、あのときは無責任に好きなように生きてられたんですもんね。
万能で無敵だった。
だからこそ、人生は無限に広がっていて、なんだって好きなものになれるんだと信じ込んでいた。
だから、「あの頃は良かった」になっちゃうんです(笑)
もちろん、そうではない人もいただろうし、きっと、いつだって今が最高だと言える人生が良いに決まっている、と思ってる。
いや、決まっているかは知らないけれど、そのほうが幸せですよね。
なんて、持論に反論したり肯定したり否定したり、もはやそういうことを考える時点で、ああ、自分は十分大人になっているんだなと思います。
大人というものは、視点が広がること。
思考の幅が広がること。
また、そうしようという意思のもと生きる人のことを言うのかもしれない、なんてアラフォーに片足つっこんだくらいから考えたりしました。
「あの頃はよかった。」
それに固執していれば、成長はないんですけども、たまにボヤくくらいいいじゃない!なんて思ったりして。
懐古厨だとdisってる若者も、20年後は同じように言ってるかもね。
なんだったらあの頃は楽しかったって、高校時代を思い浮かべてる20代もいるかもしれない。
そこで足を止めたら、いけないよ。
結婚は良いか悪いかなんてどうでもいい
結婚はリスクだとか、コスパが悪いとか。
色々見聞きすることがよくあるんですけど、まぁどうでもいいですよね。
人は、いつだって行動するのに明確な理由を求める傾向があると思うんです。
結婚しないことにも、きっとその人なりの理由が必要なのだ、と。
確実に間違いだと言えるのは、そのような他人の生き方や意見を鵜呑みにして、本当の気持ちを封じ込めてしまうことかもしれない。
結婚したいなら婚活サイトに登録してみたり、近くにいる素敵な人と対話をしてみたらいいと思うんだけど、もちろん、これがそんなに簡単なことではないと感じる人もいるかもしれない。
行動することに理由が必要なように、行動しないことにもまた、理由が必要なんだろうと思うんです。
結婚するもしないも、好きにしたらいい。
自分は、好きにしました。
コスパとかリスクとか考えてません。
それを頭が悪いとか勢いだけでしょ!とか、そう思われたところで、自分にはなんの影響もないわけで。
目の前にあらわれた素敵な夫と、ともに歩んでいこうと考え、「結婚」という選択をとった。
ただ、それだけのことで、それ以外の理由なんかいらなかったんです。
子育てを通して何を得られるのか
で、わたしは27歳で第一子を、32歳で第二子を産みました。
40歳の誕生日には、こんなハプニングもありました。
ほんっと楽しいです。
ツイッターさぼってますが記事は書いてます。
僕えらい!というわけで、先日40歳になりました(唐突)
次女(7)にずっと28歳だと言っていたので、夫が「とうとう40だねー!」って言った瞬間、「は?40歳なの?ガチで言ってる?(真顔)」みたいな反応されたのはここだけの話。
— 小松ゆみ@文章書く人 (@yumi_HappyStyle) February 25, 2020
子育ても13年目。
泣いたり笑ったり、ときには自己嫌悪したり。
子育ては自分を育てることだといいますけど、なぜそのように言われるのか、わかったように思います。
自分の経験という足りなすぎるソースの範囲でいえば、子どもの行動や発言などを通して、自分がどのように考えているのか突きつけられてきました。
その自分の考えが果たしてこの子のためになるのか、真剣に自問自答してきた気がします。
もちろん、そんなことを考えもしない人もいるのだろうと思うんですよね。
自分のいうことは絶対的に正しくて、子どもにもそれを突き通せるのだ、と。
でも、正しさはいつでも相対的だと思うんです。
そう考えているだけでも、子育ての役に立つのではないかとも感じます。
絶対だと信じきることの愚かしさを教えられるから。
子どもにはこれからも未熟なわたしと向き合わせることになるかもしれません。
申し訳ないなと思うことだってあるでしょうね。
わたしは、心底自信がありません(笑)
子どもがまっとうに育ったから自分が正しかった、という気もない。
まっすぐ育ったのは、わたしの努力や育て方ではなく、子どもたちの生きるちからそのものだと思うので。
わたしは、死ぬときに、あぁ、自分はよくやったよ!自分なりに子育てがんばったよ!と、思いながら死にたい。
そうやって、最大限自分を褒められる生き方ができればいいなと、子育てを通して思うようになりました。
夫
夫とは、21歳から一緒にいるので、もう19年も一緒にいることになります。
いまだにいろんなことを話しますし、お互い過剰に干渉せずに過ごしています。
わたしがゲームをしている横で、ドローンやカメラをいじってる夫がいます。
子どもたちもゲームをしたり漫画を読んだり、youtubeみたり。
もちろん、こんな風にできているのも、もう、子どもが自分のことは自分でできるからですけどね。
まだ乳幼児の頃は、それなりにピリピリしながら生活してたこともありました。
話を戻して。
知り合った頃は頼りない人かもしれないと感じたこともあったんですよ。
決断力はそれほどなく、優柔不断なのだと思っていました。
でも、19年を一緒に過ごして、それらは、「慎重さ」だったり「おもいやり」という言葉に書き換わってきています。
自分勝手にものごとを決めず、なにごとも相談してくれます。
まぁ、なんでもかんでも相談されるとこちらの負担になることは、もう少しわかってくれと思いますけれども(笑)
ドライで腹黒いと思っていた一面は、「メンタルが安定している」ということでもあるのかなって。
なぜそうなのかというと、わたしとは違って、他人と自分との境界線がはっきりしているので、他人のことでメンタルを病むことがないんですよ。
一時的に上司との関係で悩んでいたことはあったんですが、その人がいなくなったら無敵になりました(笑)
(無敵じゃないよ〜〜〜!ってツッコミ入ると思いますが。)
とことん相性が悪かったのでしょうね。
もともと、その人が辞めることがきっかけで部下になったので、いずれいなくなるという気持ちだけでやっていけてたのかもしれない。
何はともあれ、仕事では言いたいことを言い、あまり抱え込むこともせず、上司とも平気で喧嘩をするような人なので、メンタルは十分安定しているほうなのだろうと思います。
メンタルの安定は、メンヘラにならないということではなくて、他人に自分を乗っ取らせない強靭さだと思うんですよね。
このことについて書くと長くなるので、この記事ではここで終わっておきますね(´・ω・`)
夫には助けられてきました。
でも、わたしも助けてきたと思います。
夫婦円満の秘訣なんてよくわからないんですけど、よく思うのは、「ともに相手を思いやること」だとは感じるので、そうできない相手・そうしてくれない相手であれば、さっさと離婚したほうがいいと思っています。
まぁ、いうだけなら簡単なので、おまえがいうなと言われたらそれまでなんですけども。
ただ、昔からわたしのなかには、離婚は決してネガティブな選択肢ではないし、それをまわりからあれこれ言われる筋合いもなく、その人の選択に過ぎないという価値観があります。
それは、自分の親を見て思ったことです。
つらいまま営む生活はメンタルを破壊するので、それならいっそ離れたほうがマシだと、見てて感じたことです。
きっとわたしも、相手が夫ではなければ離婚していたかもしれないし、夫もわたしではなければそうなったかもしれません。
一緒にいるための努力をし続けられる相手が、たまたまそばにいるだけなんですよね。
それが、夫でよかったです。
夫婦で対等であること
でも思うのは、常に対等である、ということですかね。
専業主婦だからとか関係なく、相手とは対等でありたいと考えています。
だから、話し合いも対等にしています。
「わたしはあなたのママじゃない」
…と、夫に対して叫ぶツイートがバズったりしていますよね。
その気持ち、言いたいことはわかるんですが、でもわたしは、このツイートに違和感を覚えることもあるんです。
対等というのは、なかなか難しいです。
平等とはまた違うので。
家事負担の比率とか収入の有無や割合ともまた違います。
対等というのは、まっとうな意見交換ができるかどうかに尽きるのかもしれません。
相手が聞く耳を持たなければ意味はないですし、逆に、好き勝手感情をぶつけるのも決していいやり方ではないですよね。
「問題点を洗い出し、わかりやすく伝え、改善策を練る。」
これがスムーズに行えるかどうかだと思うんです。
感情を持ち出すなということではなく、適切に伝えること。
「わたしはあなたのママじゃない。」
この一言で、あなたが抱える問題点は、果たして伝わるのでしょうか?
また、それは相手に対して本当に対等な態度なのでしょうか?
人生、いらないもののほうが多い
40代になったばかりで40代を語ることはできないと思います。
だから、30代という10年間で、何を得たか考えてみたのだけど、適当なところでは、
人生、いらないもののほうが多いよなぁ!
ということかもしれません。
恋愛も、結婚も、キャリアも、プライドも、人脈も、あれもこれも。
ほんとうはなくたって生きていけるんですけど、でも、あったほうがいいって信じられてます。
だから、必死でしがみついてしまう。
自分はもともと執着心などないと思っていたんですよ。
たしかに、物質的なものに関しては、やっぱり執着心はありません。
別に家も持ち家である必要もなければ、しがみついてでも続けたい仕事もない。
それとは別の、自分が大切だと思っていた考え方やものの見方、捉え方、相手への印象、親から教えられてきたこと、これまで自分が学んできたことなど。
自分を曲げられない、とでもいいましょうか、そんなものへの執着心はたくさん持っていたことに気づきました。
でも、それすらも、執着する必要はないんだなって感じるような、30代はそんな10年間でした。
自分さえあればいい。
その自分を、いつだって自分に合わせてカスタマイズする勇気をもつことのほうが、よっぽど重要だと思うんです。
昔はこんな考え方をしていたけれど、今の自分には合わない。
ではこうしよう。
こんな柔軟な生き方こそが、人生を豊かにしてくれるのだと思います。
それは、他人から言われてそうするのではなく、自分が感じることでもあるんですけども。
自分を感じて、考えてみる。
必要と思っていたものがだんだん削ぎ落とされて「どうでもいいや」って手放せるものを増やしていく。
それが生きやすくなる秘訣でもあるのかもしれないと、今は思っています。
この先も、そう思うかどうかんなんてわからないですけどね。
ただ言えるのは、やわらかく生きていきたい。
それだけかもしれない。
手放しちゃダメなのは、自尊心だけ。
あとがき的なもの
これから先40代を歩んでいくけれど、きっとこれまで以上に体の不調と付き合うことになるんだろうなぁなんて、19歳の頃から付き合いのある10歳上の友人をみていて思います。
彼女とは本当に長い付き合いで、気のおけない友人で大好きなんだけど、最近は老眼の話ばかりなんですよ。
自虐なのかもしれないけれど(笑)
スマホを見るたびに「今日も画面見えてる。老眼はまだ大丈夫か。」と、勇んで買ったコストコのケーキに胸焼けを覚えながら安堵する自分がいます。